「死刑にいたる病」は2022年公開の映画。
櫛木理宇(くしきりう)の同名小説を白石和彌監督が映画化。24人を殺害し、うち9件で罪を問われて死刑判決を受けた犯人。しかし、最後の1人だけは自分がやってないと主張し、その背景を調べていくうちにおぞましい結末に向かっていく話。
「凶悪」以来、何本もの胸糞映画を撮ってきた白石和彌監督。今回も最高に胸糞な映画が爆誕した。
テーマになるのは、「虐待」と「洗脳」。
心の闇や狂気の世界に触れた禁忌な映画だ。
物語の主人公となるサイコパス殺人犯人の榛村。なぜ、榛村は特定の年齢の人間だけを殺害し続けたのか、榛村は本当に殺していない殺人があるのか?そしてその真犯人は誰なのか?を考察していく。
死刑にいたる病(2022)
4.3点
ミステリー
白石和彌
阿部サダヲ、岡田健史
- 24件の殺人容疑で逮捕された男にまつわるスリラー
- 1人だけ殺していないという主張は嘘か真か
- 白石和彌監督作品
- 胸くそ悪いイヤミス映画
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映画「死刑にいたる病」キャスト
登場人物 | キャスト |
---|---|
榛村大和 | 阿部サダヲ |
筧井雅也 | 岡田健史 |
金山一輝 | 岩田剛典 |
加納灯里 | 宮崎優 |
筧井和夫 | 鈴木卓爾 |
筧井衿子 | 中山美穂 |
根津かおる | 佐藤玲 |
佐村 | 赤ペン瀧川 |
滝内 | 音尾琢真 |
映画「死刑にいたる病」ネタバレ考察・解説
榛村はなぜ人を殺したのか?
榛村は17〜18歳ごろの人間を男女問わず殺害している。
拘置所の中で雅也に榛村が理由を説明しているが、榛村は信頼関係を築き上げ、そこから絶望の痛みに落とすことに喜びを感じるタイプのサイコパスである。
そしてそれは榛村が生きていく上で不可欠な行動だ。
私たちが日々の何気ない行動の中で好きなことに時間を費やすように、仕事をしたり食事を作ったり、何気ない会話をしていくのと同じように、榛村には人を殺すことが必要だったからだ。
その日常が当たり前であり、そうしていかないと生きていけない人間だったのだ。
白石和彌監督もインタビューの中でこう答えている。
パン屋さんとしてパンを焼くことも、若い男女をいたぶって殺していくことも同じような感覚、人生の一部であり、それをしないと生きていけない人物
otocoto
しかし、その殺人衝動を抑えていたのがもう一人の主人公である雅也だという。雅也が榛村のパン屋に通っていたのはまだ中学生だった頃。榛村が狙いをつけていた年齢とは離れていたためターゲットにならなかったという。
しかし、これもすべては榛村が息を吐くようについた嘘。
雅也を操るために特別扱いをしたのである。
ここで重要なのは、雅也のキャラクター。雅也は大学でもぼっち生活で鬱屈した毎日を送っている。父親に暴力をふるわれ、期待された大学にいけなかったことで自尊心は低い人間だということだ。
榛村の目的とは
IQが高く社会性の高いサイコパスは、何が狙いで雅也に事件を調べさせていたのか。
それは、彼の趣味に雅也が付き合わされていただけという構図が成り立つ。
榛村は、人を殺すことそのものよりも、人を思うままに操ることに重きを置いていた。
一般人が食べる・寝るを繰り返すように、殺すという行為が必要な榛村には必要だった。
その一方で、人を操る人身掌握術は、榛村の特技であり才能、そして趣味の1つだった。
死刑判決を受けた後もその趣味を生かして、獲物として関係を持った者たちに手紙という形でアプローチしていたのだ。
そして、雅也をはじめ総じて自尊心が低い人間はそういった人間に操られやすい。
実際に映画の中で、接した人間たちの多くは榛村に洗脳されている。
榛村は、雅也だけでなく、家の近所で出会う老人や、孤児園の園長など、榛村と関わった人間でネガティブな意見を言うものはおらず、気に入られていた。
拘置所にいた刑務官まで洗脳しきったところに、彼の類希れなる才能があると感じ取れるだろう。
また、弁護士についても榛村の息がかかっている。だから雅也にもやたらと協力的だったし、外部に流出してはいけない資料を簡単に見せている。
榛村は逮捕された後、拘置所から何人にも手紙を書き、やってきた者たちを拘置所の中から操ろうとしたのだ。
ほとんどすべての殺人罪を認めた榛村が、唯一犯行を認めなかった社会人の女性、根津かおるのことを調べさせることで、観客にミスリードを誘っていくうまい流れでもある。
こうして、雅也だけでなく観客も榛村に騙されていくのだ。
根津かおるを殺した犯人とは?
根津かおるを殺したのは、榛村だ。
他の23人とは異なり、根津かおるは20歳を超えていた。また1つの殺人の間に3ヶ月ほどの期間があったのに対して、根津かおるを殺した時は1ヶ月半しか経過していない。
残虐な拷問の仕方も異なるし、犯行のたびに行われていた爪を剥がすという行為だが、根津かおるの爪は剥がされていなかった。
明らかに杜撰な方法であり、秩序型サイコパスの榛村の犯行に思えないということで雅也は詳しく調査をしていくことになる。
しかし、いくつかの点で根津かおるを殺したのは榛村だと推測できる。
- 直近の犯行で被害者に逃げられている
- 金山の絶望を操りたいという欲望があった
- 殺人に別れを告げ、爪を捨てている
- 榛村が罪を犯したのは17,18歳の被害者だけではない。
弁護士に問いただしたときに、榛村の若い頃の犯行の話が出ている。それは中学生の頃に小学6年生の女児に対して働いた暴行のことだった。
これは、この数年間は榛村のルールの中で殺しをしていたに過ぎず、決して殺さないというわけではないことを指している。
榛村は若い頃、金山の兄弟とも関係があった。榛村は2人に刃物を使ってお互いを傷つけ合わせていたという。お互いというよりも、傷つけられたい相手に指を差すというゲームをさせられていた。
そのことを後悔していた金山だったが、小さな頃に植え付けられた恐怖は今もなお解けなかった。そして大人になって再び出会った後、榛村に同じゲームをさせられて指を挿した先にいたのが根津かおるだ。
根津かおるも同じように榛村に洗脳された過去を持っている。
そして、雅也の前で根津かおるを殺すことで、指を挿した金山に一生モノの後悔を植え付けたいというのが榛村の狙いである。
榛村はすでに自分が捕まることがわかっていた。直前の犯行で被害者に逃げられたため、その前に自分の影響力で悪のオーラを周囲に振り撒きたかった。
同じように逮捕される前に獲物として狙いを定めていた根津かおるを殺したのだ。だから犯行は今までとは異なる点が多く見られた。
しかし、弁護士や裁判官の見立て通り、同じ地域、同じ時間軸でこれほどまでに残虐な殺人が行われることはないという判断で、根津かおる殺しの犯人と断定される。
雅也は、そのゲームに付き合わされただけなのだ。人を操ることが榛村の趣味の1つなのだから。
榛村は雅也の父親なのか?
雅也は榛村と話してから、だんだんと様子が変わっていった。次第に自分と似た匂いを感じ、2人は面会室の中でシンクロしていく。母親と榛村の関係を知ったことで、より親近感を得るようになる。
それまでは世間とは距離を置き、自分の主張を声高々に伝えることはなかった。しかし、だんだんと攻撃的になっていくのは榛村の影響だ。
抑圧され、鬱屈していた雅也にとって、榛村は救世主のように感じはじめていたのかもしれない。
抑圧を強制してきた父親よりも、自分の話を聞いてくれて、決して否定はしない榛村に惹かれていった。
それどころか最大限の褒め言葉を使い、自尊心を高めてくれる榛村に共鳴してもおかしくはない。
私たち観客からすれば、若い男女を何十人も残虐な方法で殺した連続殺人犯の子だと聞いただけで、震え上がり、恐怖や怒りで発狂するに違いない。
しかし、雅也にとっては、それは希望であり、光なのだ。社会に溶け込めず、他人に声高に主張できない雅也にとっては強い人間の存在が必要だったのだ。
しかし、それこそが榛村の狙いである。雅也をコントロールするために榛村は「父親なのか」という問いかけに対して否定せず、利用した。
自分を否定するものは殺しても良いのではないか?と考えるようになった雅也。決して逆らわなかった父親に対しても憎悪が増している。
それは、雅也が母親に「父さんを殺したいと思ったことは?」と聞いたのは、赤の他人かもしれない人物に、自分の人生を狂わされたことに怒りを感じていたに違いない。
ポジティブな自尊心ではなく、怒りをエネルギーにしたネガティブな自尊心が肥大化したことで、ある日、爆発してしまう。しかし、人を殺すということが当たり前にできなかったことで雅也は榛村の子供ではないということを理解するのだ。
後味の悪いラストのどんでん返し
雅也は自ら破壊衝動を起こしてみたものの、榛村とは違うという結論を得たのでその洗脳から解放された。ラストの流れでは決して榛村を全否定するわけでもないので、どこかまだ慕っている風であった。
とは言え、心を縛り付けていた呪縛からは解放され、仲良くなった灯里とともに大学生活に少し彩りが見えはじめていた。
しかし、ラストでこれでもかというほど後味の悪いラストシーンが流れる。
それは灯里も榛村との繋がりがあったというラストだ。
「好きな人の一部を持っていたいという気持ちがわかる」
という灯里の悪意のない笑顔は心底ゾッとするほど怖かった。
白石和彌監督が「まだ有名ではない女優を起用した」と言っているが、観客もまだあまり知らない新人だからこそより不気味に映っただろう。
「好きな人の物が欲しい」ではなく「好きな人の一部が欲しい」という表現で終わらせるのがイヤミス映画の真骨頂である。
映画はここでエンドロールとなるので、この後については特に描かれないが、榛村が獄中に入ったあとも蔓延させている悪意のオーラは断ち切れなかったというバッドエンドで終わるのだ。
「死刑に至る病」というタイトルの意味
「死刑に至る病」というタイトルだが、これはデンマークの哲学者・キルケゴールが書いた本のタイトル「死に至る病」からきている。
映画の冒頭で、雅也が講義を受けているときにも少し話が出ていたが、この映画のテーマにもなっている。
「死に至る病」という重々しいタイトルであるが、これは人間の「絶望」を書いている。
人間は誰でも絶望に陥るとされていて、本当の自分から目を逸らしたときにそれは始まる。
また、他人の影響ではなく、自分自身との関係がうまくいかずに自暴自棄になったり投げやりになったりするときに「絶望」が始まるという。
肉体的な死ではなく、精神的な死について書かれたのが「死に至る病」だ。
映画「死刑に至る病」の中では多くの人が、家族に恵まれず自尊心が低い状態のまま成長してしまっているが、結局は自分の心と向き合えず、理想の自分になれていない状態なのだ。
そこに榛村は目をつけ、「絶望」している者たちに自尊心を与えてやることで、彼らの尊敬を受けるように仕向けていたのだ。
ちなみに、キルケゴールの「死に至る病」というのは何も悲観的なことを書いたわけではない。
人間は絶望しうる知性を持った動物だからこそ、絶望の先にある成長へと繋げていくことが大事だと説いている。
しかし、榛村によって捻じ曲がった方向へと植え付けられた者たちは、洗脳という形で操られていくのである。
榛村のように人心を掌握し、人をコントロールする人物が悪意を世界中にばら撒くという行為は心底ゾッとする。しかし、出会って話した人すべてを意のままに操るなどという行為は少し現実感がなく、それが良い塩梅となっています。
リアルに寄せ過ぎず、フィクションとして、エンタメを楽しめる要素の1つでもあります。
胸くそ映画であるのに間違いはないが、ミステリー、スリラー要素も満載で最後まで目を離せない良作映画だった。
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