「ドライブ・マイ・カー」は2021年に公開された映画。
家福が突然死した妻の”音”と向き合い、また自分自身と向き合い、真実に迫っていく話。
運転手として雇われた”渡利みさき”という女性ドライバーとともに愛車のサーブ900に乗りながら徐々に明らかになる展開は、ムダだらけに見えてムダなものは一切なしという構成力。
アカデミー賞の作品賞にノミネートされるだけでなく、数々の国際映画賞をとった注目度の高い映画だ。
監督は「寝ても覚めても」の濱口竜介。
3時間にもおよぶ大作で、難解な部分はあれど、脚本がしっかりしているおかげで一度も退屈せずに観ることができた。
サーブ900のドライブとその風景はもちろん、エンジン音から道路を走るタイヤの音まで全てが心地よい。原作者”村上春樹”の文才による役者たちのセリフの美しさと絶妙なテンポと抑揚が抑えられた音階。俳優たちの表情による演技も含め、全てが計算され、妥協を許さなかった産物である。
途中までは「おもしろいけど、これがアカデミー賞取れるなら他の邦画も取れるはず」と考えていたが、このストーリーで最後まで惹きつけた力に納得だ。
そして脚本。一歩間違えば冗長化間違いなしの芸術映画になりかねないところを、しっかり作り上げたのは細部にわたったこだわりの強さであろう。
“妻の秘密”という謎を序盤で提示し、岡田将生という間男を匂わせるキャラを登場させることで、ストーリーとしても3時間上手に引っ張っていったのは、アカデミー賞を獲得しにいくのであれば必須の要素だ。
一方で「つまらない」「面白くない」という評価があってもおかしくない。なんとなく見ていてもおもしろい要素は多分にあるけれど、ラストを観ると疑問符が湧くことも多い。
そういう人が少しでも減ることを願って、”妻の秘密”の謎や妻の脚本の意味などを含めて解説していく。
「ドライブ・マイ・カー」
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「ドライブ・マイ・カー」映画情報
タイトル | ドライブ・マイ・カー |
公開年 | 2021.8.20 |
上映時間 | 179分 |
ジャンル | ヒューマンドラマ |
監督 | 濱口竜介 |
映画「ドライブ・マイ・カー」キャスト
登場人物 | キャスト |
---|---|
家福悠介 | 西島秀俊 |
渡利みさき | 三浦透子 |
家福音 | 霧島れいか |
高槻耕史 | 岡田将生 |
イ・ユナ | パク・ユリム |
コン・ユンス | ジン・デヨン |
ジャニス・チャン | ソニア・ユアン |
映画「ドライブ・マイ・カー」あらすじ
舞台俳優であり、演出家の家福悠介。彼は、脚本家の妻・音と満ち足りた日々を送っていた。しかし、妻はある秘密を残したまま突然この世からいなくなってしまう――。2年後、演劇祭で演出を任されることになった家福は、愛車のサーブで広島へと向かう。そこで出会ったのは、寡黙な専属ドライバーみさきだった。喪失感を抱えたまま生きる家福は、みさきと過ごすなか、それまで目を背けていたあることに気づかされていく…
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映画「ドライブ・マイ・カー」ネタバレ考察・解説
インターナショナル版の違い
(C)2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会
話の本筋の前に気になるのが、レンタル版に表記されている「インターナショナル版」の文字。
劇場公開と何か違うのかと感じる人もいるだろう。
しかし、実際には全く同じ映画である。
海外向けにも配信が開始されたものと思ってもられればいい。余計な編集が入っているわけでもディレクターズカット版のように、追加シーンが差し込まれているわけではない。
日本公開時はPG12(12歳以上は保護者同伴推奨)指定だったのが、海外向けにR15に引き上げられているだけだ。
「ドライブ・マイ・カー」のシーンでたびたび表現される性描写に関する日本と世界の基準値の違いである。セックスシーンは登場するものの、視覚的にははっきりとした表現はないので、日本では少し緩いらしい。
しかし、この映画は12歳未満が見て面白いと思える気はしない。
ワーニャ伯父さんとは
「ドライブ・マイ・カー」は、家福がいる現実世界と舞台の脚本、そして”音”が書いた脚本。この3つが絡み合い、家福が”音”と、世界と、そして自分に向き合っていく作品だ。
この物語は、なぜ音が浮気をしていたのか、音の秘密はなんだったのかという外向きの謎にせまるミステリーの話ではない。家福の内面に向かう作品だと知る必要がある。
映画の始まりは、家福と妻の”音”がまだ生きているが、タイトルクレジットが現れるのは40分過ぎ。
つまり、ここまでは小説のまえがきと同じであり、実際に物語がスタートするのは家福が独りになってからなのだ。
「真実というのは、どんなものでも恐ろしくない。1番恐ろしいのはそれを知らないでいること。」
という音の語りがあるように、真実に向き合おうとしない家福の話なのである。
物語のキーになってくるのが、家福が広島で準備し、車の中で音の声に合わせて練習している脚本。
タイトルは「ワーニャ叔父さん」という。
ロシアの作家アントン・チェーホフが描いた戯曲(演劇のために執筆された脚本)であり、多くの優れた短編を残した小説家だ。「ワーニャ伯父さん」はチェーホフの4大戯曲の1つであり、演劇界の傑作と言われれているそうだ。
この「ワーニャ伯父さん」は「ドライブ・マイ・カー」における世界観を表している。
そして、音が書いた「空き巣に入った女子高生」の話は、音が夫の家福に対して抱いている内なる感情を脚本を通じて吐露するものとして扱われている。
この2つは家福のいる現実世界とリンクする。そして、真実から目を逸らし続けた家福が、ドライバーの渡利みさきの存在をきっかけとして自分自身と向き合い始める。
「ワーニャ伯父さん」という物語は、人間は苦しみながら生きるしかないという悲哀を描きながらも、その中でも小さな光を見ながら生きていくという話。
「ドライブ・マイ・カー」の幹となる部分でもある。
失意と絶望に陥りながら、自殺もならず、悲劇は死ぬことにではなく、生きることにあるという作者独自のテーマを示す『ワーニヤ伯父さん』
新潮社、神西清訳『かもめ・ワーニャ伯父さん』裏表紙
演者が棒読みの練習をさせられていた理由
(C)2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会
「ドライブ・マイ・カー」で挿入されるキャストの練習風景。
その中に一見不思議な光景があった。
それは演者に台本を棒読みさせるシーンだ。
これは濱口竜介監督が実際に行っている練習方法なのだそうだ。
感情を抜いて台詞を繰り返し読む、という練習方法はいわゆる「濱口メソッド」としてファンにはお馴染みの手法ですが、
引用:文春オンライン
この練習方法は、演劇におけるテキストを役者が自分のものに取り込み、声を作るのに重要なのだそうだ。
「本読み」をすると、声の持つ情報量ってすごいものだなと実感するんです。その人の体調や気分が声によってわかる。「本読み」をしてテキストを身体化する作業は、言うなればこのブレを少なくすることです。
体調や気分によって感情が変わるため、そのブレを徹底的に排除するために「本読み」を繰り返すらしい。
そのため、このシーンは本編にはあまり関係がない。
音の浮気相手は誰だったのか?
(C)2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会
家福が飛行機の遅延により急遽家に戻ると、自宅で音が他の男とセックスをする現場を目撃してしまう。
家福はその事実を問い詰めるわけでもなく、知らないフリをして家を出る。
音は浮気を繰り返していた。
音は、脚本家として一緒に仕事をした俳優たちとたびたび寝ていた。
しかし、音を失うことを恐れた家福はその真実と向き合わずに逃げていたのだ。
家にいた男が誰なのかについては、最後まで触れられていない。
しかし、浮気のことを高槻に話した際、高槻には明らかな動揺が見てとれた。また、高槻は未成年と問題を起こしたり、ジャニスと行為に及ぶなど自分自身をコントロールできない性格でもあった。
以上のことから高槻も”音”の浮気相手の1人とみていいだろう。
そして、高槻とジャニスが面接の中でキスをしたとき、家福は明らかに動揺していた。
おそらくあの瞬間、高槻の後ろ姿と自宅での後ろ姿を重ね合わせたのだ。
つまり、音が家に連れ込んでいた男は高槻なのだ。
妻の秘密とヤマガに恋した女子高生の話
音には夫とセックスをしている最中に脚本を組み上げていく能力があった。しかし、そのことを彼女は覚えていない。夜のベッドで家福に聞かせ、翌朝、家福の口から聞く話を脚本に起こす。
そこで練られた脚本は絶賛され、しばしば彼女のキャリアを救う一手となったという。
普通に脚本を書くこともあれば、そのような状態になることを待つこともあった。
その話の1つが、「空き巣の女子高生」の話だ。
ヤマガというクラスメイトに恋をした女子高生が、もっと彼のことを知りたいと家に忍び込む。
彼女は告白するつもりはなかったが、ヤマガのことは深く知りたかったからだ。
ヤマガの持ち物を少しずつ盗み、そして代わりに自分の持ち物を置いていった。
しかし、自慰行為は絶対にしなかった。それが彼女が決めたルールだからだ。
何回も忍び込んではバレない程度に盗みを続けていたが、だんだんと大胆になっていった。
そしてある日、ついにルールを破り自慰行為をする。
ふいに誰かが帰ってくる音に気づいたが、彼女はその行為を止められなかった。
「終わりだ。これでようやくやめられる」と。
この話は、音自身のことを表している。
音は家福を愛していた。それは音と家福の関係、家福が事故にあったときの慌てようからも察することができる。
家福自身もそう感じていたし、高槻も愛されて幸せだと言っていた。嘘を見抜くことができるという渡利みさきもそう感じていた。
しかし、音は、他の男との体の関係を持つことをやめられなかった。
家福を裏切ることをやめられなかった。
音は、女子高生の話を通じて自分自身の闇を知らせようとしていた。ヤマガという男を家福に見立てて脚本を作った。
女子高生と同じように浮気の行為のヒントを日常生活に散りばめた。しかし、家福は知らないフリをした。
そして最後に家に男を連れ込みセックスをした。玄関に家福が入ってきたとき「終わりだ。これでやめられる」と思ったのだ。
しかし、家福は見なかったことにした。
家福が体験した物語と音が作った脚本は、実に似通っている。つまり、これは音の体験談だからだ。
家福に話した物語はここで途切れているが、物語には続きがあった。
帰ってきた誰かは空き巣だったのだ。
ようやく全てが終わり、この馬鹿げた行為から終われると思ったが、家福は目を背けて逃げたのだった。
その失望は家族ではなく空き巣という形で表現されることとなった。
ヤツメウナギの意味
(C)2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会
彼女は脚本の中で女子高生をヤツメウナギの生まれ変わりだと言った。
ヤツメウナギの生態は、他の魚に寄生して生きていく。しかし、女子高生の前世であるヤツメウナギは決して誰にも寄生しなかったという。
人間は誰かに寄生して生きていく。それは伴侶かもしれないし、子供かもしれない。良くも悪くも、多かれ少なかれ、人間同士は頼り頼られ依存しながら生きている。
音は、誰にも寄生できなかった。自分の娘を失った喪失感は大きく、夫との関係も元に戻ることはなかった。
その叫び声を家福は聞いていなかった。他の男に体を求めることが音にとって内なる叫びだったのかわからないけれど、家福はその叫びに気づかなかった。気づかないフリをしていたのだから。
家福に捧げた脚本は、続きがあった。音はすべて知っていたのだ。
「空き巣の女子高生」の話は、無意識のうちに練り上げた脚本ではなかった。音が意識的に書いた脚本だ。
その証拠に家福に聞かせる前に、高槻は先に続きを聞いている。
それは、彼女が秘密を持つことに苦悩していて、女子高生と同じように苦しみから解放されたいと望んでいたからだ。
しかし、この願いが叶うことなく音は死ぬ。帰ってきたら話の続きをするつもりだったのかもしれないし、真実を話すつもりだったのかもしれない。
ラスト・結末の意味
家福とみさきの関係性。
話の流れにはあまり関係のない2人であるが、家福が自分の内面と向き合うためにはとても重要な存在だった。
それは、みさきのドライブがあまりに快適であることも大きく関係する。
だんだんと2人は惹かれあっていくのだが、それは恋愛対象というよりは似たもの同士だからである。
みさきは北海道で生まれ、母親との2人暮らしだった。母親に虐待された過去も持っていた。
みさきは母親が二重人格であることを知っていた。
そしてそれを知らぬフリして受け入れていた。母親が本当の二重人格なのか演技しているかどうかまではわからなかったが、8歳であるサチという少女の人格を受け入れていた。
みさきもまた、母親の真意がわからぬままだった。
家福もみさきも近しい人の真意がわからず苦悩していたのだ。
そのみさきが、家福に言う。
他人の心をそっくり覗くことは無理。しかし、自分自身と深くまっすぐ見つめ折り合いをつけることが他人の理解に繋がる、と。
ただ単にそういう人だったと思うのは難しいのか。音は、家福も愛しているけれど、他の男とも寝る。
そういう女性なのだと。
音がなぜ他の男と寝ていたのか分からない。
愛してくれているはずなのになぜ裏切るのかも分からない。
結局他人の心をすべて覗き込むことは耐えられることではない。
家福自身が考える音をそのまま受け入れ、そういうものだと理解することが大事なのだ。
ラストシーンの解釈 なぜみさきは韓国にいたのか
(C)2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会
ラストシーン、数年後のみさきが韓国で買い物をする姿が映し出される。
車はサーブ900だが、そこに家福の姿はない。
家福は妻とともに生きたサーブ900を譲ることで、自分の中で折り合いをつけたのだ。
買い物姿はパンデミックの世界だった。ここで一気に現実に引き戻される。
この物語はどこか遠い国のおとぎ話ではない。現実に今、起きている話なのだ。
「ワーニャ伯父さん」のラストのセリフが思い起こされる
「仕方ないわ。生きていかなくちゃ…。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。そしてわたしたち、ほっと一息つけるのよ。わたし、信じてるの。おじさん、泣いてるのね。でももう少しよ。わたしたち一息つけるんだわ…」
妻と娘を失った家福は決して幸せとは言えない。
母に虐待され、先立たれ、父の顔も知らないみさきも苦しいことをたくさん経験している。
私たちは生きていかなければならない。
でもその中でもほっと一息つけることもあるのだと。
家福は苦しみ続けながらも生きていくことを選んだのだ。
日本にいるときは全く笑わなかったみさきに少しだけ笑みが浮かんでいた。そこに少し救いを感じることができた。
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