映画「流浪の月」は2022年公開の映画。
李相日監督が「怒り」から6年、再び広瀬すずを起用したヒューマンドラマ。
「流浪の月」は、2022年公開の李相日監督作品。
2016年公開の「怒り」では、衝撃的な演技を見せつけた広瀬すず。今回は女児誘拐事件の被害者という難しい役に再び起用。W主演となる松坂桃李は、犯人役を演ずる。
広瀬すずの演技力は、今回も抜群。被害者役として同情され、善意の押し売りを受けるときの上べだけの表情や、自分の居場所だけでさらけ出せる表情の違いを丁寧に分けられていた。
なかなか見ることのできない横浜流星とのキスシーンや、その後に続くラブシーンがあるあたりは、李相日監督との信頼関係によるものだろう。
また、松坂桃李の憑依されたような演技は、もはや彼の精神を崩壊させていかないか心配になるほどである。絶望の淵に佇む”文”という男そのものにしか見えない演技は「空白」でも発揮されているが、役そのものになりきっている。
「流浪の月」は、女児誘拐事件の加害者と被害者の物語。外面は小さい女の子を誘拐した重大犯罪の話であるが、そこには他人には分からない2人だけの真実が存在したという話。
この映画のテーマは、事実と真実の違い。善と悪の交錯。
李相日監督が手掛ける「悪人」「怒り」は、善と悪が水面の揺らぎのように入れ替わるギリギリの淵を描く。「流浪の月」も同じく善と悪が人の見方によって全く変わる映画なのだ。
その境目を曖昧にしたまま映画は進むので、観客も疑心暗鬼になりながら更紗の行動を、そして文の何かに取り憑かれたような表情を見守り続ける。
文は本当に小児性愛者なのか、更紗は文に洗脳されていないのかをまずは考える必要がある。
そこから見えてくる真実、善と悪の価値観、相互依存など現代社会がはらむさまざまな問題を浮き彫りにしていくことで、この物語が持つ本質について考えていく必要がある。
流浪の月(2022)
4.5点
ヒューマンドラマ
- 少女誘拐の加害者と被害者のその後
- 誰が悪で誰が善なのか?
- 李相日監督が描く善と悪の揺らぎ
- 松坂桃李x広瀬すずのW主演
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映画「流浪の月」キャスト
登場人物 | キャスト |
---|---|
家内更紗 | 広瀬すず |
佐伯文 | 松坂桃李 |
中瀬亮 | 横浜流星 |
谷あゆみ | 多部未華子 |
安西佳菜子 | 趣里 |
湯村 | 三浦貴大 |
更紗(幼少時代) | 白鳥玉季 |
阿方 | 柄本明 |
映画「流浪の月」のラストの結末とネタバレ考察・解説
文の病気はなんだったのか?
(C)2022「流浪の月」製作委員会
まず、ラストでわかる文がひた隠しにしていた秘密。それは彼の病気に関するものだ。
文は更紗の前で裸となる。そして自分の陰部を見せて、誰とも繋がることができないカラダだと語る。この病気について詳しく語られることはなかったが、文の病気は性腺機能不全と呼ばれるものだ。
性腺機能低下症の症状は、二次性徴がおこらない、または二次性徴が始まっても途中で停止または退行してしまうことです。
引用:MSDマニュアル
要は男性ホルモンが分泌されず、精巣の発育などがされないままの状態で大人になってしまう病気。思春期のときに発覚することもあれば、年をとってから発症することもあるらしい。
だから文は、大人になっても誰とも性行為ができなかったし、誰とも繋がれなかった。まだ第二次性徴に至っていない小学生に惹かれてしまったのも、その病気とは無関係ではないようだ。
母親が、育ちの悪い木を根こそぎ抜いてしまうシーンは、文自身のことを暗示している。母親に失敗作だと決めつけられ、最低限の面倒は見るが、目も合わせることはない。その絶望から彼は塞ぎ込むようになったと思われる。
更紗はストックホルム症候群だったのか?
(C)2022「流浪の月」製作委員会
「流浪の月」で文が読んでいたポー詩集が取り上げられるが、その内容が物語の核となっている。いわゆる「普通の人」と同じように生きられない文の心の叫びを詩集の中で表現している。
文や更紗が読み上げていた詩の中には、他の子達と違うことについて書かれた一節がある。興味があること、悲しいこと、楽しいこと、すべてが人と違う感覚を持つ人間の孤独や苦悩について書かれた詩だ。
病気に苦しみ、母親からは失敗だと思われて、人とは違う感性を持つ文にとって、この詩集は大きく刺さった。親に捨てられて、親戚の家では性的虐待を受けた更紗にとっても同じなのだ。
2人が出会い、歪な関係となった結果、世間から見たらさらに普通ではない状況を生み出すことになった。
更紗は誘拐犯の被害者として。文は幼女誘拐の小児性愛者として。
世間は、更紗が何を言っても誰も聞く耳を持たない。更紗は誘拐されて傷ついたかわいそうな人。文は小児性愛者の気持ち悪い犯罪者。警察は全く耳を貸そうとしない。恋人ですらそうなのだ。
更紗が何を言おうとも、真実を語ろうとも、世間は同じように見ない。かわいそうな更紗は文に洗脳されたと思われるのだ。ストックホルム症候群と呼ばれている精神的な病気がある。
誘拐や監禁などにより拘束下にある被害者が、加害者と時間や場所を共有することによって、加害者に好意や共感、さらには信頼や結束の感情 まで抱くようになる現象
引用:コトバンク
ストックホルム銀行で起きた銀行強盗に、人質が共感してしまったという現実に起こった事件から名前がついている。実際に小説の中では「ストックホルム症候群」という言葉を使って、女児誘拐事件を取り上げている。
被害女児は加害少年の洗脳から抜け出せないまま、今も加害少年と同じマンションで暮らしている。(中略)これは完全なストックホルム症候群であり、彼女に手を差し伸べる誰かが必要だ」という文章が記されている。
otocoto
小説では言葉で説明し、読者のイメージを想起させなければならない。逆に映画では映像で観客のイメージを膨らませて、尺の短さを補完する。
だから映画から入ると、文は私たちが定める善人側にいるのか悪人側にいるのか分からないが、更紗の行動を見ている限り、合理的な理由で文に惹かれているのがわかる。
それは私たち外部の世間が手に入れる情報では到底理解できる話ではない。
だからこそ私たちは、更紗を可哀想な人、文は気持ち悪い人というレッテルを貼ってしまうのだ。
善意への違和感
(C)2022「流浪の月」製作委員会
映画の中でも、主人公の更紗をかわいそうな被害者と決めつけてアドバイスしてくる人が後を経たない。
余計でおせっかいな善意への違和感は、井戸端会議にいる主婦たちにより繰り広げられる。しかし、更紗には何も響かないのは、そもそも前提が違っているからだ。
人にかけた言葉が相手に響くかどうかは、あくまでタイミングと関係性によるということに尽きるのかもしれないですね。(凪良ゆう)
引用:りっすん
更紗にとっては、文は自分に居場所をくれた大切な存在だ。一切を否定しない。居ることも離れることも自由だと言ってくれた唯一の人。
文についての認識が異なる時点で、どれだけ気にかけてくれようとも何も響かない。
私たちは、「女児誘拐事件の被害者」という見出しから、自分の持ちうる想像を膨らまして、おぞましい事件を思い浮かべる。更紗が否定したところで、何も変わらない。人は皆、見たいようにしか見ないからである。
更紗は15年間そういった善意を浴び続けているのだ。
相互依存関係にある更紗と亮
(C)2022「流浪の月」製作委員会
「流浪の月」は、相互依存の物語でもある。文、更紗、亮。この3人に共通しているのは、母親に愛されなかったことだ。
亮も母親に捨てられた経験を持つことで、更紗に極度に依存している。親戚の子どもが更紗に言っていた「居場所のない人」を選ぶのは、相手からも依存させることで優位性を保つためだ。
その優位性が崩れたときの彼の精神はもろい。仕事場まで連絡し、ストーカー行為を行い、果ては暴力をふるって懐柔しようとする。
しかし、更紗にとって亮の隣は自分の居場所ではなかった。「更紗は更紗のものだ」と文に言われたように、亮のもとから離れていく。
更紗と文も相互依存の関係にあるが、亮とは信頼の残高が異なる。更紗の真意を知ろうともしない亮と違い、文は更紗のすべてを受け入れる。
文が小児性愛者であろうとなかろうと、更紗の本当の姿を受け入れてくれるのは文しかいないのだ。
唇のケチャップを拭うシーンの意味と文の正体
(C)2022「流浪の月」製作委員会
文は小児性愛者、いわゆるロリコンとレッテルを貼られたまま映画は進行していく。明確に明示がないまま進むので、観客からしても、なぜ文は更紗を家に連れて行ったのかについてははっきりとしないままだ。
回想シーンを見ていると、単純な小児性愛者ではないことは想像できるが、表情の薄い文の行動、不安定な精神状況が、どこか不安な感覚を引きずり続ける。
それは同じ李相日監督が描いた「怒り」のように、この男を本当に信じていいのかという不安が頭をよぎるのだ。
しかし、文は確かに小児性愛者ではない。
彼は大人になった更紗にも優しかった。小児性愛者なのであれば女性になった更紗に心惹かれることはない。
文がポー詩集を朗読しながら、回想シーンが流れる。そこで、神秘的なモノに心惹かれたというセリフと同時に映像として表現されるのは、幼少期の更紗とのシーンである。
文は、少女としての更紗に惹かれていたのではなく、人間としての更紗に惹かれたのだ。
calicoという喫茶店の名前。これは英語で更紗という意味がある。文にとっても更紗は特別な存在だった。母親から否定された絶望の中、更紗は一筋の光のような希望であったに違いない。
また、文は病気であることも小児性愛者とは違う理由の1つであるが、ロリコンというレッテルを貼られても、その病気のことは世間に隠したかった。
だから更紗は映画のラストまで文が大人の女性を愛せない本当の理由を知らなかったのだ。
では、ラストシーンの手でケチャップを拭ったシーンはどうだろうか。口元を拭うのは回想シーンの中でも現れるが、そのときは素手で更紗の口元を触っている。その後「ごめん」と謝り手を引くのだが、これは性的な欲求からの行動ではないのだろうか。
ケチャップを拭ったシーンについて、松坂桃李はインタビューの中でこう答えている。
「僕はそのシーンを演じる時に、文は自分の持っている特性から解放されるのではないかという期待があった上で更紗の口を拭ったけれど、何も湧き上がってくるものがなかった。文からしたら絶望にまた引き戻された瞬間でもあって。そのような思いで演じていました」
引用:Mapionニュース
つまり、文にとって大切な魅力のある更紗のくちびるを拭うことで、性的欲求のようなものが込み上げることを期待しての行為なのだ。大切なひとを触りたいという欲求から出るものではなく、その感覚を手に入れられるのではないかという淡い期待のものでの行動である。
彼は、人間として大切な人と愛することはできるが、恋愛の感覚がわからなかった。しかし、触ってみても高揚感はない。自分の病気が治らないことを悟ってしまうシーンなのだ。
U-NEXTでは未公開シーンとして、2人のその後が挿入されているが、そこでも文は更紗についたマヨネーズを手で拭うシーンが現れる。全てを受け入れてくれた更紗と過ごす。そのときの文の表情は穏やかだ。
それはただ人としての情愛に包まれた表情である。
流浪の月のタイトルの意味とは
(C)2022「流浪の月」製作委員会
最後に映画のタイトルの意味。これは2人の関係性を表している。流浪とは、さまようという意味で使われる。
そして、月は、文にとっての更紗、更紗にとっての文を表している。
月を2人が見る時は湖の水面からだった。2人は水面から顔を少しだけ突きだし月を見る。2人にとって月は微かな希望の象徴なのだ。太陽のように大きな光を当てることはできないけれど、お互いがお互いを照らしている。
生きづらい世の中で、苦しいことばかりの世界は2人にとって暗闇の中でしかない。そこから救い出してくれるのが、お互いの存在なのだ。
しかし、その光はとても儚い。水面に顔を埋めただけで光を失うように、不安定な支えでしかない。そんな2人のギリギリの境界線を月と水面を使って表現している。
15年前に離れ離れになったが、お互いがその月を頼りにすることで最後の光を失わないように生きてきたのだ。
流浪の月が炙り出すのは、社会の歪み。世界がかんたんに繋がり、誰でも論評できるようになった社会において、とりわけ成熟した社会では己の正義の価値観に置いて相手を断定し、断罪する。
それは、ときに文や更紗のような人々追い詰める。SNSでその問題が浮き彫りになったが、人間の本質的な行動によるものだ。
マスコミや週刊誌がある断面を切り取り偏向報道をすることに対して嫌悪感を得る人も少なくない。しかし、それは今の時代、誰もがマスコミであり週刊誌になりうるのだ。
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