「グリーン・ナイト」は2022年に公開されたA24の手がけた映画。
中世の騎士道を描いたアーサー王物語を原作とし、そのシリーズの1つである「ガウェイン卿と緑の騎士」を「ゴースト・ストーリー」のデビッド・ロウリー監督がダークファンタジーとして描く。
いつものように音楽や映像美はA24らしく素晴らしい出来栄えで、デビッド・ロウリー監督の決してユートピアとは言えないファンタジーの世界も唯一無二である。
しかし、そのストーリーはわかりづらく、少なくとも原作を知った上でないと何も楽しめない作りになっている。
映像のセンスがあるので見ていて苦痛ではないのだが、最後まで観て「で、何?」と言わざるをえない映画だ。
今回は、グリーン・ナイトの元ネタとなる原作との違いや、ラストシーンの意味を考察・解説していく。
グリーン・ナイト(2022)
2.8点
ヒューマンドラマ
- アーサー王物語の現代版
- 騎士は清く正しく理想的な存在でいられるのか
- A24が贈るダークファンタジー
- 原作を知らないと意味がわからない
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映画「グリーン・ナイト」キャスト
登場人物 | キャスト |
---|---|
ガウェイン | デブ・パテル |
エセル | アリシア・ヴィキャンデル |
城の主人 | ジョエル・エドガートン |
モーガン・ル・フェイ | サリタ・チョウドリー |
女王 | ケイト・ディッキー |
盗賊 | バリー・コーガン |
緑の騎士 | ラルフ・アイネソン |
アーサー王 | ショーン・ハリス |
映画「グリーン・ナイト」ラストの意味とは?ネタバレ考察・解説
アーサー王物語とは
(C)2021 Green Knight Productions LLC. All Rights Reserved
「グリーン・ナイト」の主人公として登場するガウェインは、アーサー王物語物語に登場する円卓の騎士の1人だ。
円卓の騎士とは、アーサー王とともに円卓に座ることを許された者たちのことを指す。円卓なのは座るものに上位や下位などなく、対等であることを示すためだ。
そもそもアーサー王とは、6世紀ごろにブリトン人を率いていたとされる伝説上の人物であり、現在のグレートブリテン島に侵入してきた異国の者たちに抵抗してきた王の物語。
アーサー王物語と呼ばれる話は数世紀に渡り、さまざまな形でヨーロッパ各地に受け継がれた話だ。
その中の1つの話が「グリーンナイト」。原作は14世紀に書かれたとされる作者不詳の「ガウェイン卿と緑の騎士」という物語。
今回、デヴィッド・ロウリー監督は、その小説に脚色を加え、オリジナルのストーリーに昇華している。
原作とはストーリーが異なるガウェイン卿と緑の騎士
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話のあらすじは原作と変わらない。アーサー王の甥であるガウェインは、クリスマスの宴にて緑の騎士と出くわし、ゲームを持ちかけられる。
緑の騎士は、自らの首を差し出す代わりに、首を切った者を1年後のクリスマスに、緑の礼拝堂まで来いという。そこで今度は緑の騎士が首を落とすというものだ。
死のゲームに了承したガウェインは、首を切り落と来た後も平気で生きている緑の騎士に従い、1年後に緑の礼拝堂を目指して旅をする。
困難な旅路を経て、目的地のすぐそばにある城の主人の元に辿り着く。
厳しい旅路を乗り越えたガウェインは、そこでしばしの休息をする。快く迎え入れた城の主人は、狩猟で得てきたものをやるから、代わりにガウェインが城の中で手に入れたものを交換しようと奇妙な約束を交わす。
その後、クリスマス直前に城を離れて緑の騎士に会いに行く。
大筋の話は一緒だが、この城でとった行動が異なる。
私たちは最近、人間は汚いものという現実を知り過ぎてしまったからか、この辺りの流れに違和感を感じてしまう。しかし、この物語で語られるのは高貴な騎士の物語。清く正しく、理想的な人間の姿なのだ。
原作でのガウェインも円卓の騎士の規範となるような高貴な男である必要があった。
それらを試すために道中の旅路でトラップが仕掛けられていた。
城で出会った主人に持ちかけられたトラップは、城主の妻からの接吻や誘惑である。
原作では、接吻まではしたものの、最後の誘惑に負けることはなかった。誠実な対応に加えて、一線を越えることはしなかった。
城主の妻に身につけるように言われた腰の帯こそ城主に渡さなかったものの、その誠実さを買われてハッピーエンドで終幕を迎える。
旅路は乗り越えたものの、男が身を滅ぼす原因が女性だというのは、現代にもわかりみが深い。
そして現代版のリメイクとして描かれた「グリーンナイト」では、城主の妻の誘惑に勝てずに、弄ばれてしまう。
このことを交換条件に黙っていたガウェインは、最後に首を切り落とされることとなるのだ。
高貴な騎士も人間で、欠点を持ち、誰しも過ちを得るということを描いているが、現代社会で描かれた映画版はそうはならない。ガウェインは首を切り落とされるのである。失敗したものが再浮上しにくい現代社会に合わせて改変されているのだ。
ガウェインに試練を与えていたのは母親
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この一連の話を裏で操っていたのは、モーガン・ル・フェイという魔術師だ。
冒頭で、緑の騎士が現れたとき、女性たちが儀式のようなことをしていたのを覚えているだろうか。あれは城の主人を緑の騎士に変える魔術をかけていたのだ。
モーガン・ル・フェイは、ガウェインの叔母にあたるが、この物語では母親がそれを担っているとみられる。
つまり、騎士として息子を鍛えるために今回の出来事を仕組んだという仮説が成り立つ。
階級の釣り合わない女性と恋に落ち、高貴な騎士であることの自覚がないガウェインを玉座に座らせるために。
この仮説は決して答えが用意されていない。
しかし、モーガン・ル・フェイが仕組んだ罠というのは原作と同じだし、そこに母がふがいない息子を育てるというストーリー付けがされた可能性が高いのだ。
ラストの指す意味
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物語のラスト。ガウェインは緑の騎士に首を切り落とされる前に恐怖で逃げ出してしまう。
城に戻ると歓迎される。逃げ出したことは言わずに名誉ある騎士として生活する。しかしガウェインの心の中にはずっとわだかまりがあった。本当は勇気のある男でもなければ、高貴な騎士でもない。
恋人の子供を産むも、階級の違いによりすぐに離れ離れにされる。アーサー王の死後、玉座を受け継ぐものの、次第に民からも宮廷内からも信頼は薄れていく。
ガウェインの正体は、理想の騎士とはかけ離れているからだ。
大事な息子は戦場で死に、周囲から人はいなくなり、敵に攻め込まれて首を落とされる。
そこに、高貴で敬われるべき騎士としての姿はない。これが、モーガン・ル・フェイによる試練を乗り越えることができなかったガウェインの末路なのだ。
しかし、それはガウェインが見た先の未来だった。その未来が見えたガウェインは、勇気を奮い立たせ、覚悟を決め、災難から逃れられるというガードルを捨てる。
彼は決して正しい選択をしてこなかったが、最後に死を恐れず名誉を得るという選択したのだ。
緑の騎士は、逃げ出さなかったことを褒めたたえるも、首を切り落とすと言ってエンディングへ。
原作では試練を乗り越えたガウェインだったが、映画では誤った選択が多くてバッドエンドへ。
現代社会を皮肉まじりに描いたダークファンタジー。人間なんて欲望に負けるし、高貴とか清廉さとかは、まやかしでしかない。そう考えると違和感を感じる映画もあった。
ただ、ドラゴンクエストの主人公が、旅路の途中で誘惑に負けることを想像してほしい。そこには失望感が広がり、多くのものが裏切られたと感じるのではないか。
ここで描かれるガウェインは物語の主人公だ。純粋で常に正しい選択を行える人物だ。勇気があり礼儀正しく他の者の規範となる騎士道精神を持っているはずなのだ。
勇者といえども欠点があるということをチラ見せしたのが原作で、勇者も人間であり、失敗したら断罪されることを教えたのが映画版である。
しかし、ガウェインは首を切り落とされる代わりに守ったものがある。それは名誉だ。それは、日本の武士の切腹にちかいものであり、試練を乗り越えられず、誘惑に負けたことを恥じ、死を受け入れたことで、偽りにまみれた未来を回避したのだ。
コメント
コメント一覧 (3件)
最後首切られてないと思うんですが、、
コメントありがとうございます。首を切られたではなく、首を切り落とすといってエンディングですね。
いや、確かに緑の騎士は最後に微笑みながら「それでは、首と共に去れ」と告げて終わります。
首は切り落とされないのです。
ガウェインは「死の代わりに名誉を守った」のではなく、「不誠実さこそが身を滅ぼすことを悟り、誠実さを守るべく命を捧げようと覚悟したからこそ、緑の騎士から勇敢なる騎士として認められた」のではないでしょうか?