「ある男」は2022年に公開された邦画。日本アカデミー賞において8部門を獲得した「蜜蜂と遠雷」「愚行録」の石川慶監督作品。
不慮の事故により亡くなった夫が名乗っていた名前は全くの別人だった。その衝撃の事実から徐々に真相に迫っていく過程を描いたサスペンス。
エンターテイメントと芸術のバランスがとれていて、高評価なのも納得の作品。ラストが意味するところなど、含みを持たせている部分もあり、鑑賞後も楽しめる本作。
映画のテーマから、小説と流れの違う最後、実話っぽい匂わせについてまで考察・解説していく。
ある男
(2022)
4.0点
サスペンス
石川慶
妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝
- 死んだ夫は全くの別人だった
- 徐々に真相に迫っていく過程を描いたサスペンス
- 日本アカデミー賞受賞作品
- エンタメと芸術のバランスがとれた石川慶監督作品
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映画「ある男」キャスト
登場人物 | キャスト |
---|---|
城戸章良 | 妻夫木聡 |
安藤サクラ | 谷口里枝 |
X | 窪田正孝 |
谷口大祐 | 仲野大賀 |
後藤美涼 | 清野菜名 |
悠人 | 坂元愛登 |
城戸香織 | 真木よう子 |
小見浦憲男 | 柄本明 |
中北 | 小籔千豊 |
映画「ある男」ネタバレ考察・解説
ある男のテーマとは?
(C)2022「ある男」製作委員会
「ある男」は戸籍交換を題材とした作品である。
太陽の下で大手を振って歩けない過去を持つ人間たちが、戸籍を交換することで別の人生を手に入れる男たちの話だ。
その根源的なテーマとはなにか。
「ある男」のテーマについて原作者の平野啓一郎氏はこのように語っている。
『ある男』は、私の小説家生活二十年目のタイミングで刊行された長篇です。例によって、「私とは何か?」という問いがあり、死生観が掘り下げられていますが、最大のテーマは愛です。それも、前作『マチネの終わりに』とは、まったく違ったアプローチで、今回はどちらかというと、城戸という主人公を通して、美よりも、人間的な〝優しさ〟の有り様を模索しました。
「ある男」特設サイト
「私とは何か?」という自己の存在理由について深掘りしていくのが「ある男」の話の核ではあるが、その奥に秘めたテーマには愛が存在する。
話のはじまりは、得体のしれない元夫だけでなく、登場人物はなにかしらの偏見や差別があり、作品全体に不穏な空気がつきまとっている。
しかし、最終的に人間の優しさに触れていく物語は、人々へかすかな希望を受け渡してくれる。
なぜXは大祐を名乗っていたのか
(C)2022「ある男」製作委員会
里枝の夫である大佑は、本人ではなかった。温泉旅館の次男である大佑という男は、結婚していた男とは全くの別人であることを知る里枝。
では、自分が愛したこの男は一体誰なのか?
そのルーツを探っていくと見えてくるのは、戸籍交換をするブローカーの存在。大佑を名乗っていた男は、死刑囚の息子の小林誠という人物だった。
彼は死刑囚の息子という出自からどうしても逃げ出したかったのだ。父親にそっくりな自分の顔を見るたびにどうしようもない苦しい衝動に駆られていた。父親の顔を被った自分の姿を見ることがたまらなく嫌だった。
どんなに近しい相手でも、その人から「あなたはこういう人」と決めつけられてしまうとそれはその人にとってはすごく息苦しいことなのかもしれない。さらに言えば、「自分はこういう人間だ」と自分自身を決めつけていることも、自分を息苦しくしているのかもしれない。
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どう生きていても父親の影がちらついた。暴力的な面を見せれば「死刑囚の父親」だからとレッテルを貼られる。
小林姓から母親の旧姓に変えたところでどこかでバレてしまう。呪縛のような名前から逃れるために、戸籍交換をしたのだ。
人里離れた場所で生きていこうとしたところで、里枝と出会った。里枝は幼い子どもを亡くし、元夫と離婚。実家に帰ると父親が亡くなるという壮絶な境遇にいた。
2人は程なくして愛し合い、結婚する。里枝のもう1人の子供と、2人の間にできた娘と4人で仲良く暮らしていた。
過去を話さない男だったが、その時間が幸せだったことは、里枝と息子の悠人とのやりとりでわかる。
しかし、そこで暮らした4年間はとても平穏なものだった。
こうやってわかってみるとですけど、本当のことを知る必要はなかったのかもしれません
これは、真実を知った里枝が、城戸に言った言葉である。夫の名前は全くの別人だったし、死刑囚の息子だという過去もある男だった。
しかし、男と出会い、愛し合って、家族と仲良く過ごした時間は事実だったからである。
男は自分を愛することはできなかったが、家族を愛していたし、そして愛されていたのである。
城戸が最後にウソをついた理由
(C)2022「ある男」製作委員会
また、この男は、狂言師として登場する城戸にも影響をおおきくあたえる。
物語において、観客(あるいは読み手などの受け手)に物語の進行の理解を手助けするために登場する役割のこと。
脇役のようでいて、物語に深く入り込んでいるのは、城戸は、私たち観客が投影された姿だからだ。
城戸は、里枝からの依頼でXの調査を続けるうちに、自分の出自とも否が応にもむき合うことになる。
在日3世という立場で、日本に帰化し、日本人の妻を持つ。日本人の生活に溶け込んでいるものの、出自がついてまわるのは、城戸も同じだった。
殺人鬼の息子という、戸籍を変えてでも逃れたいと願うほどの出自ではないにしろ、義父のように在日に対する偏見のある人に出会ったり、外国人へのヘイトスピーチがテレビで報道されるたびに自分を意識せざるを得なくなる。
朝鮮人のコミュニティのなかで暮らしているわけではないし、ひどい差別を受けながら育ったわけでもない。だけど、ヘイトスピーチが溢れ返っているような状況を目の当たりにすると、否応なく自分の出自を意識せざるをえなくなる。
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在日にカテゴライズされた中に浴びせられるヘイトは、自身にも深く刻まれていく。
だから城戸はラストシーンで、大祐の人格を借りて過去を語り、別の人間になりすましてみたのだ。
しかし、これは誰でも奥底に秘めているものではないだろうか。
高校デビュー、大学デビューという言葉があるように、今の自分を変えたいという欲望は誰にでもある。ネットの中にいるときだけ人格が変わったりするのもその欲望によるものだろう。
また、人間は接する人によって対応も話し方も変わる。
この分人主義というのが、平野啓一郎氏の軸になるテーマである。
近年の平野作品を貫くキーワードが「分人主義」だ。一人の人間のなかには、対峙する相手に応じて何人もの「自分」が存在する、という考え方である。
相手によって、関係性や環境によってちがう自分がいるというのは、当たり前のこと。会社員がYouTuberをやっているなんて珍しくもない時代です。
この人と接するときは、強気に出るのに、あの人と接するときは自分を出しにくい。人によってバラバラだろうが、いろいろな自分がいる矛盾を感じることは誰しもあるだろう。
城戸を通じて私たち観客にも語りかける。単一のキャラクターにカテゴライズされない矛盾に満ちた人格を持つ私たちは一体何者なんだ?と。
城戸は、在日3世というわかりやすい属性がついていたわけであるが、全ての人間は多かれ少なかれ属性を持っている。
しかし、その矛盾を含めてそれがあなたなのだと受け入れることが重要なのだ。
ラストシーンを見ると、在日3世という出自から解放されたいと考えた城戸が、妻の不倫をきっかけに家族を捨てて戸籍を変更したかのようにも見える。
しかし、これは小説の始まりの部分である。
実は、その後再びバーで「私」と城戸は出会っており、そのときに名前や経歴を偽った理由を話しはじめる。
これに対して城戸は、谷口大祐という男を追ううちに、自分のアイデンティティを揺るがされ、妻の不倫を知り、別人になりすますことに、ちょっとした喜びを得るようになったのだという。
『ある男』では、深刻な理由で自分の過去から逃れたいと思っている男の話と、40歳くらいになってそういうことをふと思うような感覚の両方描ければいいなと思っていた
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つまり、映画のラストでは谷口と名乗り、再び会った時に城戸を名乗ったのだ。
飾られていた絵の意味
(C)2022「ある男」製作委員会
城戸がいたバーには、特徴的な絵が飾られていた。鏡の前に立っている男性と、その後ろ姿が写されている絵画。
ルネ・マグリットの作品「不許複製」である。戸籍交換によって人の人生を複製しながら生きてきた男を暗示した作品だ。
ボードの上に置かれている本は正しく鏡に反映しているのに対して、男性は後ろ向きのありえないイメージになっていて、本作は男性の疎外感を表したものであるという。
そして、在日として生まれたことで、疎外感を常に感じていた城戸がこの絵を見つめる姿も印象的である。
映画「ある男」は実話なのか?
(C)2022「ある男」製作委員会
「ある男」は平野啓一郎の小説が原作となっている。映画と異なる点として小説の「序」で、小説家を名乗る「私」という人物が、弁護士の城戸と出会うシーンが描かれている。
その中で、城戸という人物が実在し、それをもとに小説に書いたという記述が載せられる。
小説を書くに当たっては、この人や関係者に改めて話を聞き、「守秘義務」から城戸さんが曖昧にしか語らなかったことを自ら取材し、想像を膨らませ、虚構化した。
小説「ある男」より引用
映画のラストシーンで城戸と会話していた男が小説の中の「私」にあたる人物。
作者である平野啓一郎っぽい小説家。あくまで平野啓一郎自身を匂わせているわけで、平野本人が書いたとはどこにも記載されていない。
「私、そんなに小見浦憲男っぽいですか?」
映画の中で詐欺で捕まった小見浦が口にした言葉だ。
つまり、この小説家を平野啓一郎であると断定するのは、間違いなのだ。あくまで平野啓一郎のような誰かであり作者自身も「ある男」の1人なのである。
実在する平野啓一郎をにおわせとして利用することで、「ある男」の物語が読み手側にもリアルに感じるようになっているフィクションでありエンタメ作品なのだ。
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