世の中にはうまくいく夫婦といかない夫婦がいる。結婚してもすぐ別れてしまう夫婦、子どもがいても片親になる夫婦。子どもが成年するまでは我慢し続け熟年離婚する夫婦。
そんな中、死ぬ直前まで一緒に過ごし、年をとっても仲睦まじく愛し合っている関係を続けている人間はかなり少ないかもしれない。
しかし、死ぬ直前まで一緒にいたからといって幸せなまま逝けるとはかぎらない。
「VORTEX ボルテックス」は、ある老夫婦の最期を描いた物語。夫と妻のそれぞれの視点から見た世界を2画面に分けてお互いの行動を映写する。
妻は認知症を患っていて、夫は心臓に持病を抱えている。仲睦まじかった2人の生活はすれ違い、妻は誰かわからない夫に怯え、夫は妻の目の離せない行動に気が気ではない。
最後まで寄り添い続けたはずの老夫婦の悲惨なまでの悲しい結末を目の当たりにする。
監督はギャスパー・ノエ。アルゼンチン出身で父親は画家。カルネやカノン、そしてクライマックスの監督は、老夫婦の最期という人間ドラマをホラーのように映し出す。
寄り添い続けた2人の生活は美しいまま終わるはずだった。お互いがお互いを思いやり、どちらが先に死んだとて涙が流れるはずだったのだ。しかし、鬼才ギャスパー・ノエの前ではそうはならない。
あらすじから2画面構成の意味まで詳細に解説していく。
人間の一生は残酷
VORTEX ボルテックス
(2023)
3.2点
ドラマ
ギャスパー・ノエ
ダリオ・アルジェント、フランソワーズ・ルブラン
- 認知症を患う妻と心臓病を抱える夫の視点から描く人生の最期
- 仲睦まじい老夫婦に襲いかかる悲惨な結末とは
- ギャスパー・ノエ監督作品
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映画「VORTEX ヴォルテックス」キャスト
登場人物 | キャスト |
---|---|
夫 | ダリオ・アルジェント |
妻 | フランソワーズ・ルブラン |
息子 | アレックス・ルッツ |
映画「VORTEX ヴォルテックス」ネタバレ考察・解説
なぜ画面が2分割されているのか
映画評論家である夫と元精神科医で認知症を患う妻。だんだんと重症化する認知症に心労がたたり、日常生活に支障をきたしはじめる。
たった1人の息子は2人を心配するものの、自分の家族すら養うのも精一杯でお金を借りにくる。そんな状況の中、2人に最後の人生最後の時が近づいてくる。
冒頭では仲の良い老夫婦が2人描かれる。2人は適度な広さのアパートで仲良く2人暮らすショットからはじまる。
しかし、歌を挟んだ後、その状況は一変する。映し出されるはベッドの上で寝ている2人。妻は目を覚ますが様子がおかしい。今自分がなぜここにいるのかわかっていないというような表情をする。
そんな中、画面の中央に厚い黒い線が入り、夫と妻が分断される。以後、この映画はずっと2分割されたままだ。
これは、夫と妻の溝を表している。妻の中で長年生きてきた思い出が消えて、2人の間は完全に隔たりが生まれたことを意味している。
一緒に暮らしているが、互いの生活はすれ違い、話すこともままならない。
妻はなんとなく生活をしているものの、動きは散漫。何を目的に動いているのかわからない状態だ。
お湯を沸かせばそのまま忘れ、外を徘徊したまま戻らない。必要な日常生活をしているようで、していない。その状況に夫は疲れ果てていく。
年齢を重ねると子供の頃のような光り輝くような経験は得られない。積み重ねた記憶の中からポジティブな経験とトラウマ的な経験をもとに日々の行動は進んだり立ち止まったりを繰り返す。
その記憶がない状態の妻は正常な判断をこなせない。わずかながら残っている無意識的な記憶から家事を行おうとするが、まるで機能していない。
目的があって行動するのではなく、まるでプログラミングされた人形のように無意味な行動を繰り返す。
ときにそれはガス漏れにつながったり、夫の大事な脚本を捨ててしまうことにもなる。
何か大きなイベントがあるわけでもなく、ただただ妻の散漫な動きが続き、夫は夢でもある映画のための脚本作りが、ままならない状態が続き時間だけが過ぎていく。
2人の間には息子がいるが離れて暮らしている。この映画に悲壮感が色濃くなる最も大きな原因は、夫と妻、そしてその息子は仲が良いということである。
その3人の間に亀裂を入れて、フレームを2分割させている原因は認知症という病気なのだ。
誰が悪いわけでもない状況に絶望が渦巻く。こんな生活であるはずはなかったのに。
息子は2人を心配するものの、自分の子供との生活もままならず、両親に金を借りるほどに生活が困窮している。2人の様子を見にくるものの、一緒に暮らす余裕はない。
息子の妻も病気をわずらっている。精神的な病気で入院しているようで、ここでもすれ違いが続いている。父は息子に病気は誰のせいでもないと説く、それは運命なのだというが、あまりに酷である。
家の中は雑然とし、本があふれ、決してキレイな状態とはいえない。
しかし、その1つ1つにはかけがえのない思い出がつまっていて、それが良い思い出だろうが悪い思い出だろうが、自分が生きてきた証を再認識できる場所なのだ。
過去の出来事を実感できるのはもはやこの家だけだ。
息子は父親にケアワーカーのいる場所への入院を進める。しかし、長年住み慣れた家を離れることはできなかった。妻の記憶がない中、夫にとって唯一の記憶を残している場所は、この家のみなのだ。
思い出を共有しあえる相手がいなくなったこの状況に、夫は家を離れる選択肢はありえなかった。
たとえ心臓病を抱えていて、発作が起きた時に助からないリスクが大きいとしても。
ラスト 病気は誰のせいでもない
お互いのケアを適切にできないままの生活が続き、ついに破綻する。夫は夜中に心臓発作を起こすが、妻は寝たままで起きない。1人で助けを呼ぼうとするものの、間に合わずに倒れてしまう。
そのまま朝を迎え、起きてきた妻は倒れている夫を発見する。息子を呼び、病院に運ぶもののそのまま意識は戻らずに亡くなってしまう。
しかし、妻はその死を理解する能力がもう残っていない。2分割されていた画面の半分が暗闇になり、妻の視点のみが映し出される。
妻は変わらず無意味な家事を続ける。彼女がゴミ箱だと思っている場所はただのトイレだ。
そして、何かの拍子に夫がいないことに気づき、探し始める。隣人を訪ね、「もう夫は亡くなった」と言われるも、その言葉にピンときておらず、探していたこと自体も覚えられない。
場面が変わり、ケアワーカーが家にやってきて新しい家の場所を告げる。
息子が母親のために見つけた新しい新天地であった。しかし、その内容をどこまで理解していたのかははっきりしないが、妻は長年住み慣れた家で息を引き取る。
意識的にか分からないが、妻は家を離れることを拒否した。
すべての記憶が失われる中で、ひとつひとつのモノに宿った思い出の詰まった場所から離れ、知らない場所に行くということは死ぬことと同義なのだと悟ったのかもしれない。
妻は頭が明瞭なとき、3人で話をしていた。2人に迷惑をかけていることを理解している妻は自分を捨ててくれと嘆いている。
愛した夫と息子のことを悲しみも楽しみも共有できないのであれば悲嘆にくれてもおかしくない。
映画には珍しく、冒頭にエンドクレジットを持ってきたため、最後の最後まで、映像が流れる。
それは思い出の詰まったアパートからだんだんとモノが減っていき、真っ白な状態に戻るまでを描いていた。
この夫婦の一生は終わりを告げる。
逃れられない人間の生と死にフォーカスしたギャスパー・ノエ。認知症という不治の病は、他のどんな病気よりもときに残酷になりうるのだ。
映画「ファーザー」と同じく脳の病気は闇が深い。
夫に頼れる相手がいなかったのも良くなかった。息子でも不倫相手でも寄り添える人間は必要だった。
フランス人の不倫に対する価値観はよく分からないけれど、この状況で一般的なモラルに合わせることが幸せになれるとは限らないのだ。
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