映画「母性」は2022年の邦画。
女性の心の闇を描かせたら右に出るものはいない湊かなえのイヤミス小説が原作。
娘を愛せない母親と、母親の愛情を受けたい娘のそれぞれの視点が交差する作品。
湊かなえ作品は小説だったりドラマ、映画でいくつもの作品を見てきたが、どの作品も魅力のある世界観に一気に惹き込まれる中毒性のあるストーリーが特徴的。
読み始めから続きが気になって仕方がなくなり、小説であれば1日で読み終わってしまうこともしばしば。
各キャラクターの心理描写やそこに含まれる狂気性や薄気味悪さを感じられるのが、大きな魅力の1つである。
今回も同じ期待をしていたのだが、残念なことに最初から最後まで続きが気になってしかたがないというような惹き込まれ方をしない映画だった。
母性をテーマに描いたストーリーは、母視点と子視点で全く見え方が違うという恐怖が持ち味だったはずだ。
しかし、実際にはそれぞれの視点が活かされることなく話が進み、最後までふんわりとした雰囲気のまま終了してしまった。
戸田恵梨香の演技力など、役者の魅力も多い作品だっただけに、演出が湊かなえの魅力を生かしきれなかったのは残念。
とはいえ、湊かなえの持つ根源的な恐怖の要素はふんだんに詰め込まれているので、ストーリーを解説するとともに原作との違いについても解説していく。
母性
(2022)
2.4点
ミステリー
廣木隆一
戸田恵梨香、永野芽郁
- 母性をテーマに描いたイヤミス
- 母と娘の視点で見え方が変わるミステリー作品
- 湊かなえ原作
- 演出が生かしきれておらず、原作の怖さが伝わりきらない
損しないサブスク動画配信の選び方
映画を観る機会が多い方のために、損しないサブスクの選び方を教えます。
映画「母性」キャスト
登場人物 | キャスト |
---|---|
ルミ子 | 戸田恵梨香 |
清佳 | 永野芽郁 |
ルミ子の夫 | 三浦誠巳 |
ルミ子の親友 | 中村ゆり |
ルミ子の義妹 | 山下リオ |
ルミ子の義母 | 高畑淳子 |
ルミ子の実母 | 大地真央 |
神父 | 吹越満 |
中谷亨 | 高橋侃 |
清佳(幼少時) | 落井実結子 |
映画「母性」ネタバレ考察・解説
映画と原作との違い
(C)2022映画「母性」製作委員会
小説と映画では使える時間が異なるため、どうしても省略されるストーリーが存在する。
まず先に映画と原作で異なっている点を洗い出しておく。
- 田所家には長女がいた
- ルミ子は第二子を妊娠していた
- 第二子は田所家長女の息子に突き飛ばされて流産していた
- ルミ子の友人・敏子の存在
- ルミ子は詐欺まがいの商法にだまされていた
- 哲史が2人を避けていた本当の理由
ルミ子の母親の死因など、映像化にするうえで変更を加えたであろうものもあるが、ストーリーに直接関わってくるのはこれぐらいある。
田所家には3人の子供がいて、長女の憲子という存在が完全に消されている。
またルミ子が第二子妊娠したが、憲子の息子が突き飛ばしたことで流産した描写もない。
さらに、ルミ子の友人の敏子という存在と、ルミ子が悪徳商法に騙されていたというシーンもなくなっており、「第二子の妊娠→流産→精神的不安定」というくだりは省略されている。
ここは時間の都合上によるものであり、母と娘の間の描写に時間をかけたものと思われる。
また、哲史の存在感がほとんどなく、母と娘を避けていた理由も異なっているが、それについては後述する。
母性の持つテーマとは
(C)2022映画「母性」製作委員会
「母性」はタイトル通り女性が本能的に備わっているとされる、子供への無償の愛について描いた作品である。
戸田恵梨香扮するルミ子は、自分の母親に気に入られることこそが喜びと感じていた。
ルミ子の母親は、毒親ではない。ただ、我が子に無償の愛を注ぐことのできる母性を持った女性だった。
そんな母親に憧れ、娘であることを誇りに思っていたルミ子は、母が気に入ったものは、右に倣えで好きになっていた。
たとえ最初はマイナスな感情を持っていたとしても、母親次第でどうにでもなった。
それは母親に意見を強制されたわけではないし、母親もルミ子の行動を否定していたわけではない。しかし、知ってか知らずか、母が好きになるものをルミ子も好きになっていった。
そんなルミ子は、夫でさえも母親の意見をもとに選んだ。
すべての行動や選択は、ルミ子が母に喜んでもらうためにとったものだった。
ルミ子は母親の娘であり、子を産んだ後もそれは変わらなかったのだ。
だから、清佳が生まれた後も、すべての行動理由は実母を喜ばせるためだけだったし、母親を悲しませるような行動には実の娘に対しても冷たかった。
「母性」では女性には2種類あると説く。母と娘だ。
多くの女性は娘から母親に自然に切り替わっていく。それが母性である。
しかし、母性そのもののような母とは対照的に、ルミ子には「母性」はそなわっていなかった。
母性は生まれたときから備わっているものなのか、環境の中で身についていくものなのか、母性とは一体何物なのかというのがこの物語のテーマである。
また、映画も小説も母と娘のそれぞれの視点から語られる。
母の視点では思いやりを持つ娘に育てるために時には厳しく接するといった見え方になるが、娘の視点ではまるで違う。
そこには娘に向ける愛情などなく、ルミ子が母や、義母に褒められるための道具でしかないという視点が見えてくる。
母性のない母親に育てられた娘はどうなるのか
(C)2022映画「母性」製作委員会
「母性」がないという歪みが大きくなったのはルミ子の母親が死んでからだ。
ルミ子の母親が亡くなった後、家も焼失してしまったために夫の実家に入ることになる。義母は非常に細かい性格で厳しい姑だった。
畑仕事だけでなく、料理や洗濯などの家事はすべてルミ子の仕事だった。
しかし、ルミ子には母に喜んでもらうということが喜びではあったが、目上の人の期待に応えることも喜びの1つだと考えていた。
義母に罵倒され、こき使われることは決して幸せとは言えなかったが、根底にある目上の人を敬う行為が変わることはなかった。
どんなにこき使われようと、どんなに人格を否定されようと、そこに生きがいを見出していた。
対して清佳は実の母親をぞんざいに扱う義母に対して敵意を抱いていた。
ルミ子は清佳を守るようなことをしなかったが、清佳は母親を守ろうとしていた。しかし、そんな清佳に愛を向けることはなかった。
むしろ、目上の人を邪険に扱う娘を疎ましくさえ思っていた。
ルミ子が清佳を褒めるときは、ただ1つ。目上の人、特にルミ子の母親が喜ぶような行為をするときだけだった。
母親からの愛情が乏しいことを感じていた。しかし、清佳は母親からの愛情を欲し続けていた。
ルミ子が母親に気に入られようととった行動と同じように母親に愛されようとしていた。
哲史はなぜ不倫をしていたのか
(C)2022映画「母性」製作委員会
ある日、同級生とバスを降りた後、祖母の家の方向に向かう父親の姿をみた清佳。
あとをつけてみると、そこにいたのは父親の幼馴染でもあり、母親の友人でもある仁美との不倫現場だった。
仁美はルミ子が結婚を迷っていたときに反対していたのは、学生時代から哲史のことが好きだったからと思われる。
そして、哲史が不倫をしていのは、母と娘の関係を見続けることから逃げていたからである。
娘は母に好かれようと懸命に奉仕するも、母親は娘に対して冷たい態度をとり続けている。その生活から逃げるために不倫生活をしていたのだ。
また、原作では家が火事になったとき、ルミ子の母親を助けずに自分の絵だけを取りに行ったという描写がある。
もしかすると2人とも助けられたのかもしれない罪悪感から現実逃避をするように不倫をしていたのが真の理由である。
湊かなえの小説では、男性の存在感が薄いことが多いが、映画ではさらに薄まっているので、わかりにくい。
そして火事があったとき、清佳はルミ子が自分の娘より母親を助けることを優先していたことを知り、それを止めるために祖母が自殺したことを知ってしまう。
清佳はルミ子に首をしめられたのか
(C)2022映画「母性」製作委員会
母からの視点では、祖母の死の真実を知った娘を優しく抱きしめようとしていたが、娘の視点では首をしめられていた。
物語的には娘の視点が真実のように見えてくるが、あくまで2人の主観であることを念頭に置いて考える必要がある。
。母からの視点、娘からの視点が異なるということは、私たち第三者の視点からすると、全くことなるモノが見えてくる可能性がある。
母親は、あくまで優しく諭しているつもりの行為が、娘には恐ろしく怒っているように感じることがある。これは私たちとて例外ではない。
どちらの視点が正しいのか、お互いの感情についてははっきりしない。
しかし、この後、清佳は自殺をしようとしていること、ルミ子が祖母の死を「自分が私から奪ったものの大きさに・・・」と表現していたように、娘がまるで加害者のように考えていたことから、首を絞めて殺そうとした可能性は高い。
そして、あくまで母親に好かれたい、守ってあげたいという感情を持つ清佳は、母親に罪を負わせてしまわないように首を吊ったのだ。
ラストの意味、「母性」はハッピーエンドなのか
物語の終盤では、教師となった清佳が結婚し、妊娠したという事実が発覚する。
母親との関係は自殺未遂をきっかけによくなっていたかのようだった。
清佳は考えていた。私には母性があるのかないのか。祖母のようになるのか、母親のようになるのか。
ここについては明かされないまま物語はエンドとなる。映画では優しい音楽が流れ、成長した清佳には母性が育っていたようにもみえる。
しかし、一方で清佳が母親の愛を求めるためにとり続けた行動は、ルミ子が祖母にとっていた行動と同じである。
また、映画にはないが小説のラストでは母の待つ家に帰ることが幸せだという娘視点の描写がある。
これはすなわち、清佳もまた娘であることを望む女性なのだということを示唆している。
映画ではこの辺りのイヤミス要素は排除して、ハッピーエンド風にしてしまったため、原作の良さを消してしまっている。
田所家では、今までもこれからも不穏な空気は漂い続けているのである。
ここで行われているのは、普通ならありえないおぞましいことなんかではない。ちょっとしたボタンの掛け違いで誰にでも起きることなのだ。
ルミ子の母親は間違いなく愛情を持って接していたが、ルミ子の母性は育たなかったように、いつだれのそばにあってもおかしくない現実なのだ。
ルミ子が清佳が自殺未遂をしたことで、神父に「私が間違っていた」とようやく気付いた描写があるが、娘の視点からでは異常に映る母親であれ、本人は全く間違ったことをしたと思っていなかったわけなのだ。
ルミ子は、清佳が「誰かを思いやり、人の役に立つこと」をしていけるように育てていたことである。愛能う限り一生懸命に。
世の多くの親は自分の子育てに不安があるはずだ。矛盾する行動も多くとっているだろう。しかし、それでいいのかもしれない。
「正しい」と思ってしている行動が、実は大きな歪みを生んでいる可能性があるのだから。
コメント