自分が2018年に観た映画をランキング形式で発表しているわけだけど、単純な順位づけをするには今年観た映画は少々複雑だ。
そう考えているところにまたランキングをつけがたい名作があらわれてしまった。
東野圭吾原作、堤幸彦監督作品の「人魚の眠る家」。
「ちはやふる」「万引き家族」「カメラを止めるな」。
2018年は魅力的な映画がたくさんあった。
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「ちはやふる」はエンターテインメント作品として、「万引き家族」は社会性の高い作品として、「カメラを止めるな」はその映像、脚本など考え抜かれた作品としてそれぞれ甲乙つけがたい魅力をそなえている。
そこにこの映画である。
「人魚の眠る家」は、人の死に対して、答えの出ない問題を深く考えさせる一方で、子どもを持つ親が涙なしではみられない感動作品でもあるエンターテインメント映画だ。
言い方を変えると「ちはやふる」のようにエンターテインメント性があり「万引き家族」のようにメッセージ性のある作品。
東野圭吾は、「人魚の眠る家」もそうだが、社会問題について描かれることも多い。
「手紙」では身内が犯罪者となった後の、社会での生きづらさを、「天空の蜂」では原発の問題を描いている。
メッセージ性の強い問題に対してエンターテイメント性の役割を持たせているからこれほどまでのおもしろさがあるのだと再確認した。
その重要なポイントを解説しようと思う。
映画「人魚の眠る家」あらすじ
会社経営者の播磨和昌(西島秀俊)と妻の薫子(篠原涼子)は2人の子供を授かるが、現在は別居している。ある日、娘の瑞穂がプールで溺れて意識不明になり、医師に脳死と診断される。臓器提供を希望するか、このまま死を待つかの選択を迫られる夫婦は、悩んだ末に臓器提供を決意するが、薫子が一瞬だけ瑞穂の手が動いたのを見てそれを撤回する。和昌の会社が開発した最先端技術を駆使した延命治療が始まり、彼女は眠ったまま成長していくが……。
引用:シネマトゥデイ
映画「人魚の眠る家」予告
映画「人魚の眠る家」キャスト
播磨薫子 | 篠原涼子 |
播磨和昌 | 西島秀俊 |
星野祐也 | 坂口健太郎 |
川嶋真緒 | 川栄李奈 |
美晴 | 山口紗弥加 |
進藤 | 田中哲司 |
播磨多津朗 | 田中泯 |
映画「人魚の眠る家」 作品情報
監督 | 堤幸彦 |
脚本 | 篠崎絵里子 |
原作 | 東野圭吾 |
音楽 | アレクシス・フレンチ |
主題歌 | 絢香「あいことば」 |
上映時間 | 120分 |
公開年 | 2018年11月16日 |
興行収入 | 10億円 |
映画「人魚の眠る家」 ネタバレレビュー
母親から第三者への視点変更
「人魚の眠る家」は、最初はみんな母親の立場で映画を見ているはずだ。
不慮の事故により意識が戻らなくなった娘を、指が動いたために脳死とはせずにいつか目を覚ますかもしれないと献身的に介護する母親。
プールで目を離してしまったことで罪の意識にさいなまれながらも、瑞穂の回復を願って介護する祖母。
意識が戻った前例はないといわれても、それでも自ら死と認められない母親に感情移入し、序盤は一緒に泣き崩れることだろう。
同い年ぐらいの子どもを持つ親であればなおさらだ。
しかし、BMI技術の登場から徐々に違和感を覚え始める。ただし、最初は本当に少しずつの違和感だ。
母親の薫子と、BMI技術で人を救えることを信じている星野の立場から、少しずつ第3者の視点で作品を見るようにリードされていく。
具体的には電気信号によって、身体を強制的に動かしはじめるシーンからだ。
当たり前だが、BMI技術は電気信号で身体を強制的に動かしているだけなので、生きている人間の意思にはみえない。
冒頭の泣けるシーンの連続から「あれ?」という小さな、そして残酷な違和感が頭をかすめる。
しかし、母親はもちろん父親も祖母も周りの人間たちも好意的に受けとめているため、視聴者は自分の感情がおかしいのだとそっとその違和感を押しとどめる。
この時点では、身体に意思を持たせることが目的ではなく、体を動かすことによって代謝をよくするのが目的となっているためだと自分に言い聞かせて納得させる。
そう、怖い。瑞穂を怖いと感じてしまう自分がいる。
でも、序盤でじっくりと感情移入した瑞穂に対して、怖いと思うことに罪悪感を感じてしまうことを認めたくない。
だから、心の底に押しとどめようとする。
しかし、徐々にその違和感は映画の中でもあらわれはじめていく。
星野の恋人(川栄李奈)が播磨家に行くシーンでは、第三者の感じる恐怖がこちらに伝わりはじめる。
さらに、従妹の若葉の引いているとも取れるシーン、動いている姿を見て、この行為に違和感を覚える祖母。
父親がプレゼントを渡すシーンと、その違和感は身内にも波及していく。
極めつけは、薫子が瑞穂を外に連れ出しはじめるシーン。今まで薫子の視点にたって一緒に涙を流していたというのに、
いつの間にか無関係である周囲の立場で薫子と瑞穂を見るようになる。
そして、クライマックスでは薫子の長男に対する行動に対して、あまりに身勝手で怒りすら覚えてしまう。
薫子は、おかしくなってしまったのではないかと恐怖する。
しかし、薫子は別に何も変わっていない。
外に連れ出したのは、瑞穂が教えたがっていた場所を探すためであるし、息子のことも薫子なりに考えて行動した結果であり、他者にどうこう言われる方が心外なわけなのだ。
もともと薫子は娘がいつ目を覚ましても良いようにという気持ちで行動を起こしているだけだ。
行き過ぎた部分があるようには見えるが、そう思ってしまうことこそが、薫子の視点からいつの間にか第三者の視点に変わってしまった証拠だろう。
あれだけ感情移入していた播磨親娘を「怖い」と思ってしまうのだ。
見方を変えるだけで、播磨親子に対する感情すら変わってしまう事実。
人間の感情とはなんと単純なのだろう。
クライマックスの熱量
登場人物のキャラクターが細部にわたって作られているのもこの映画の特徴だ。
母親、父親はもちろんのこと、祖母や妹、医師や技術者、その恋人にいたるまで丁寧に描写されていた。
作りこまれたキャラクターは、リアルさを増していく。本当に台本などあるのだろうか、ドキュメントを見てるのではないだろうかと思うぐらいに、生きた演技をつづっていく。
話がおもしろいというだけでは、当然出せない深みがそこにはあった。そしてそれはクライマックスにて最大限発揮される。
薫子が、「瑞穂を殺した場合、殺人罪に問われるのか」を自ら検証しようとしたシーンだ。
カメラワーク、役者の演技もさることながら、子役の演技力がまた目をみはった。
これほどの緊迫感の中で、小学生低学年の子どもたちが負けず劣らずの感情をぶつけるシーンは、涙をさそうどころではなかったし、今これを書いている最中でも涙ぐむほどである。
あと、事情を知らない警察官の困りながら説得にあたる温度感の低い役割もちょうどよかった。
ドラマティックな展開になりすぎないようにうまく調整されていたように思う。
瑞穂の心臓を受け継ぐ少年
東野圭吾がこれほどまでに支持されるのは、自身が理系出身者ということもあって、科学的な見地からの論理的な思考で話が進んでいきながらも、
人間の感情論で軽々と科学のエビデンスをくつがえすところにある。
瑞穂の葬儀をおこなったとき、医師が父親に亡くなった日について問うシーンがある。
父親の答えは「心臓が止まったとき」だった。
しかし、瑞穂の心臓はドナー提供され、別の子どもに受け継がれている。
瑞穂は生きているのか、死んでいるのか。
瑞穂の心臓を移植したと思われる少年が、瑞穂の家があった場所を訪れる。
これは、瑞穂の意思なのか、それともこの少年が直感的に分かったのか。
こういう感情に訴える表現をするのが、東野圭吾はほんとうにうまい。
脳死にまつわる話を客観的な意見と、感情的な意見に分けて落とし込むことで読者の感情を巧みに操っている。
あとがき
絶望と希望の起伏が激しく疲れてしまった。できれば映画館ではなく一人家で観ながら大泣きしたいぐらいだった。
とくに従妹の伏線はつらすぎる。「真夏の方程式」でもあったけど、これほどの重荷を子どもに背負わせるっていうことがなぜできるのかと東野圭吾氏を批判したいぐらいである。
こうやって感想を書き出してみて、迷っていたものが吹っ切れた。この映画は2018年観た中で1位だ。
いろいろ書いたが最終的な感想はこの一言で余韻に浸ればいいと思う。
泣けたー!